復活出来るか? 松坂大輔・和田毅・藤川球児・岩瀬仁紀・内海哲也・斎藤佑樹

今年のプロ野球は、実績のある投手の復活に注目が集まっています。


松坂大輔・和田毅・藤川球児・岩瀬仁紀・内海哲也・斎藤佑樹など、過去に甲子園や大学、実業団で活躍し、プロに入っても実績を残して来たスター投手たちです。


松坂大輔(ソフタバンク・ホークス35歳)

横浜高校時代、1998年の選抜で全国制覇、夏の甲子園では史上2人目となる決勝戦のノーヒットノーランという快挙を達成し、春・夏連覇を達成しました。


1998年のドラフト会議で西武ライオンズに指名され入団し、翌99年の日本ハム戦でプロ初先発初勝利をあげました。

この年、16勝を挙げて最多勝を獲得し、ゴールデングラブ賞、ベストナイン、新人王を獲得する活躍を見せました。


2000年に14勝、2001年15勝、2006年には自己最多の17勝をあげ、日本通算108勝の実績を残し、2007年にメジャーのレッドソックスに入団。


メジャー1年目に15勝、翌年には18勝をあげ、メジャーでもスター選手になっていきました。

2013年にインディアンス、2014年にメッツヘ移籍しましたが、度重なる故障に悩まされ、2009年~2014年までの6年間は23勝にとどまっています。


2015年に3年12億円の大型契約でソフトバンクと契約をしましたが、8月に内視鏡下による「右肩関節」等の手術を受け、公式戦の登板はありませんでした。

日米通算164勝のスーパースターの復活が期待されています。


和田毅(ソフタバンク・ホークス・35歳)

浜田高校で1997年度の甲子園大会に2年生エースとして出場し、初戦で石川雅規(現ヤクルト)を擁する秋田商と対戦しサヨナラ押し出しで敗れています。

1998年の夏の甲子園大会でベスト8、その後早稲田大学人間科学部に進学しました。


2002年(平成14年)には江川卓氏の持っていた東京六大学の奪三振記録443を更新し、通算476奪三振まで記録を伸ばしました。


4年の時はエースとして早大52年ぶりの春秋連覇達成に貢献し、翌年ドラフトで自由獲得枠で福岡ダイエーホークスに入団しました。


2003年、1年目から先発ローテーションの一角を担い、14勝を挙げ優勝に貢献し新人王を獲得、阪神タイガースとの日本シリーズでは33敗で迎えた第7戦に先発し、史上初めて新人で完投し、日本一の胴上げ投手となりました。


翌年に10勝、3年目の2005年には開幕投手を務め12勝をあげ、2006年には14勝、2007年12勝をあげ、入団から5年連続の二桁勝利を達成し、2010年には17勝目を挙げて最多勝のタイトルを獲得しました。


2011年に16勝をあげ、メジャーのボルチモア・オリオールズに入団しましたが、5月に左ひじ靭帯の部分断裂が確認されて、トミー・ジョン手術を受けました。


2013年にマイナーリーグで3勝をあげるが11月に自由契約となりましたが、12月にシカゴ・カブスとマイナー契約を結び、翌14年6月にメジャー契約となり4勝をあげました。


2015年にカブスを自由契約となり、5年ぶりに福岡ソフトバンクホークスに復帰しました。

日米通算112勝のスター左腕の復活が注目されています。


藤川球児(阪神タイガース・35歳)

高知商業高校2年生の時に夏の甲子園大会に右翼手兼控え投手と出場し、1998年のドラフト会議で阪神から1位指名を受け入団しました。


2002年に先発投手として初勝利を挙げ、2004年に中継ぎに転向し、202005年からセットアッパーを務め、80試合に登板し最優秀中継ぎ投手を獲得し、翌06年にも2年連続で最優秀中継ぎ投手を獲得しました。


2007年からストッパーに転向し、46セーブ目を挙げ、初の最多セーブ投手を獲得しました。

2010年に通算150セーブをあげ、翌年は41セーブを挙げて2度目の最多セーブ投手を獲得しました。


102ホールド、220セーブの実績を残し、2012年オフにシカゴ・カブスに入団し、翌13年にピッツバーグ・パイレーツとの戦開幕戦でメジャー初セーブを挙げました。

同年5月にで右前腕部を故障し、6月にトミー・ジョン手術を受けました。


2014年12月にレンジャーズに移籍しましたが、2試合の登板で自由契約となり帰国。

2015年に四国アイランドリーグplusの高知ファイティングドッグスに入団し、8月に初勝利をあげ、9月に先発投手として2勝目をあげました。


同年11月に、推定4億円の2年契約で阪神タイガースに復帰しました。

最速156 km/hの浮き上がると言われるストレートと、落差の大きなフォークボールで、往年の活躍が期待され、火の玉球児の復活に期待がされています。

女優広末涼子とは中学校の同級生です。


岩瀬仁紀(中日ドラゴンズ・41歳)

西尾東高校3年生時の1992年夏の甲子園大会2回戦で、ノーヒットノーランを達成し卒業後は愛知大学へ進学しました。


愛知大学リーグでは1年春から外野手でレギュラー出場し、打者としてリーグ通算101試合出場し、通算124安打を記録し、ベストナイン4度受賞しました。


1995年秋季のリーグから外野手と兼任で投手とし、通算15試合に登板し8勝4敗の成績を残し、卒業後社会人野球のNTT東海に入社しました。


1998年に中日ドラゴンズに入団し、翌99年には新人で中継ぎながら10勝と好成績を残したましたが、巨人の上原浩治が20勝を挙げたており、残念ながら新人王は逃しました。


2004年から押さえを任されるようになり、同年に22セーブをあげチームの5年ぶりの優勝に貢献しました。

2005年に60試合の登板で被本塁打0で46セーブを達成し、シーズン最多セーブの日本プロ野球新記録を作りました。


翌06年には2年連続40セーブを達成し、07年に通算150セーブ、3年連続40セーブを達成しました。


2010年に通算250セーブを達成し、翌11年にNPB史上初の通算300セーブ、13年に9年連続30セーブ、14年には通算400セーブをあげました。


2015は左肘の故障の影響で開幕二軍スタートとなり、プロ入り初の実戦登板なしに終わりました。


打者のひざ元まで回り込んでいくほどの変化とキレを持つ、「魔球」と呼ばれるスライダー、最速149キロのストレートで球史に残る名ストッパーになった岩瀬仁紀の復活を野球ファンは待っています。


内海哲也(読売ジャイアンツ・33歳)

敦賀気比高校時代の1999年の秋季福井大会・北信越大会で圧倒的な強さで優勝し、翌年の春の選抜高等学校野球大会への出場を確実としていましたが、チームメイトの不祥事により甲子園出場を辞退しました。


甲子園出場はならなかったが、「北陸のドクターK」と呼ばれ、2000年のドラフト会議でオリックスから1位指名を受けましたが、祖父のが巨人の野手だったこともあり、ドラフト直前に巨人以外からの指名は拒否することを表明していたために、入団を拒否し東京ガスへ進みました。


2003年のドラフト会議で巨人が自由獲得枠で交渉権を獲得し入団し、翌04年には2軍で9勝を上げ、イースタン・リーグ最優秀防御率を獲得しました。


翌2005年に4勝、06年に12勝、07年13勝、08年12勝、10年に11勝、11年には18勝をあげ最多勝のタイトルを獲得しました。


2012年には15勝をあげ2年連続で最多勝を獲得し、13年は13勝、14年が7勝をあげています。

2015年は、オープン戦で左前腕部を故障し、開幕2軍スタートで、7月、8月。10月に1軍に登録されますが、わずか2勝に終わっています。


186センチの長身でスリークォーターから投げる最速148km/hのストレートとスライダー、チェンジアップ、フォークボール、ツーシームを決め球に投球を組みたてゴロを打たせて打ち取るスタイルです。


内海投手の復活が、高橋新監督になったジャイアンツの優勝のカギと言われています。


斎藤佑樹(北海道日本ハムファイターズ・27歳)

早稲田実業時代の2006年春の甲子園大会に出場し、準々決勝で横浜高校に敗退しますが、同年夏の甲子園大会にも出場。


同年の夏の甲子園大会では早実としては26年ぶりに決勝戦に進出し、決勝戦で、夏の甲子園大会で3連覇を目指す駒大苫小牧高校と対戦。


苫小牧高のエース田中将大(ニューヨーク・ヤンキース)との投手戦になり、延長15回でも決着がつかず、1969年夏の松山商業高校対三沢高校戦以来37年振りの決勝引き分け再試合となりました。


翌日の再試合でも斎藤は自ら先発を志願し4連投し、最後のバッター田中将大を三振に打ち取って、早実を初の夏の甲子園大会優勝に導きました。


マウンドで白いハンカチで汗を拭く仕草から「ハンカチ王子」と呼ばれ、そのさわやかなルックスもあって、アイドル並みの人気を博しました。


2007年に早稲田大学教育学部社会科社会科学専修に入学し、東京六大学野球春季リーグ戦において先発を務め勝利投手になりました。


大学4年を通じて、東京六大学野球史上6人目となる通算30勝300奪三振を達成し、2010年のドラフト会議で、ヤクルト、日本ハム、千葉ロッテ、福岡ソフトバンクの4球団が1位指名し、抽選の結果、日本ハムが交渉権を獲得し日本ハムに入団しました。


2011年4月、417日、札幌ドームの千葉ロッテマリーンズ戦に先発でプロ初登板し初勝利をあげ、このシーズンを6勝6敗で終わりました。


翌12年にはプロ入り2年目で初の開幕投手に指名され、西武ライオンズ戦で9回1失点で勝利を挙げましたが、その後6戦連続で勝ち星から遠ざかるなど成績不振に陥り、5勝8敗で7シーズンを終了しました。


2013年は、前年の11月に痛めた右肩の関節唇損傷の影響で2軍からのスタートになり、調子は上がらず1軍での登板は1試合のみに留まり、0勝1敗でシーズンを終えました。


2014年は、7月のロッテ戦で先発し、5回まで毎回走者を出しながらも、2012年6月の対広島戦以来785日ぶりに勝利投手となりましたが、1軍での成績は2勝1敗に終わりました。


2015年も不振を脱却することができず、12試合の登板で1勝3敗と不本意な成績で終わっています。


2006年、夏の甲子園大会で早稲田実業が勝ち進むにつれ、斎藤佑樹が使用しているハンカチに関する問い合わせが殺到し、Yahoo!オークションでは定価400円の同じ種類のハンカチに対し、一時的に1万円を超える値がついたこともありました。


日刊スポーツ出版社発行の「輝け甲子園の星」など斎藤佑樹を扱った野球雑誌の売り上げが急激に伸び、斎藤佑樹は「週刊女性」などの女性週刊誌の表紙を飾りました。また、斎藤佑樹単独の写真集が発売されたり、斎藤をモデルにしたCDが発売されるなど連日マスコミを賑わしました。


また、斎藤佑樹のニックネームの「ハンカチ王子」は、2006年の新語・流行語大賞のトップ10に入り、伊藤忠商事を始めとして複数の企業から特許庁へ商標出願がなされました。


ライバルだった田中将大に大きな差をつけられた斎藤佑樹ですが、高校、大学時代の実績は充分で、3球団からドラフト1位に指名された逸材で、何かのきっかけで飛躍できるとファンは期待しています

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